ジャック・ラカン 現実界、象徴界、創造界

現実界、象徴界、創造界

人間は、いつまでも鏡像段階に留まることは許されず、やがて成長にしたがって自己同一性(仏:identité)や主体性(仏:sujet)をもち、それを自ら認識しなければならない。その際には言語の媒介・介入が欠かせない。
ラカンによれば、主体性は構造的に現実界・象徴界・想像界(仏: Réel symbolique imaginaire:R.S.I.と略称される)という三つの領界もしくは機能から成るものであり、鏡像段階を経て人が主体性を獲得し、言語に介入されるということは、すなわち象徴界へと参入するということであるとされる。

現実界と言語 [編集]

ラカンによれば、現実とはけっして言語で語り得ないものであるが、同時に人間は現実を言語によって語るしかない、という一見逆説的なテーゼが成り立つ。

一般的な理解のために単純化したモデルで例を示すと、たとえば或る大事件に遭遇した人々は、口々にその事件を語る。これは、その大事件という現実を、言語という象徴的なものを以って描き出そうとしているわけである。ある証言者は事件の決定的瞬間を語り、別の証言者は事件の背景に隠された事情を語るかもしれない。こうして、あらゆる角度から証言がなされ、これらを集めてマスコミは「事件の全容を解明しよう」とする。しかし、その事件をすべての角度から語り尽くすのは不可能である。現場にいたマスコミであっても、事件の一部分を体験していたに過ぎないのであり、言葉では事件を飽くまでも断片的に大雑把に伝えることしかできないのである。

同じように、どうがんばっても言葉だけでは現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。ところが同時に、人は「言語でしか現実を語れない」。これら二つの命題は、平板に見れば矛盾しているかのように聞こえるが、どちらも的を射ているようにも思える。ラカンはこの現実界の性質をメビウスの輪のような立体的な論理として紹介する。

「言語との出会い」は、現実をラカンのいう「不可能なもの」(: l’impossible)に変える。われわれは一生、現実に触れるということに対する抵抗とあこがれの間で揺れ惑う。しかし人が事後的に現実を垣間見「てしまった」り、現実に触れ「てしまった」りすることがある。たとえばそれは狂気である。(この部分はラカンが批判される根拠ともなる。たとえば我々は何かに触れて言葉を失うことがある。そういうことは日常的に起こる。むしろほとんど本も読まない一般の人にとっては、象徴の世界こそ縁遠く、日々現実と切磋琢磨しながら学ぶのである。大工の入門者が経験を積むことを考えよ)ラカンは精神病を条件づける要因として、このことを見出した。またラカンは、人は、すべて世俗的な価値体系を脱すると思われる「死ぬ瞬間」にも現実が見えるのではないか、とも言っている。

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言語活動と現実界 [編集]

たとえば、ある大事件に遭遇した人々は、口々にその事件を語る。これは、その大事件という現実的なこと、もしくは現実界(仏:le Réel)を、言語という象徴界(仏:l’symbolique)を以って描き出そうとしているわけである。証言者Aは事件の決定的瞬間を語り、証言者Bは事件の背景に秘められた事情を語るなど、あらゆる角度から証言がなされる。これらを集めて「事件の全容を解明しよう」という動きが起こったりする。しかし、マスコミ用語としては耳に親しい「事件の全容」なるものは、実際には語り尽くされるのは不可能である。

同じように、どうがんばっても言葉では現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。ところが同時に、人は「言語でしか現実を語れない」。これら二つの命題は、平板に見れば矛盾しているかのように聞こえるが、メビウスの輪のような立体的な論理として考えればそうでないことがわかる。
ゆえに人は、より的確な言葉を探したり、より多くの言葉を重ねていくことによって、少しでも現実に近いものを描き出そうと奮闘する。この誠実さは評価される。それでも、言語活動=現実となる瞬間はない。これが象徴界と現実界が分かたれる一面である。

すなわち、象徴界の参入という「言語との出会い」は、現実をラカンのいう「不可能なもの」(仏:l’impossible)に変える。われわれは一生、それに対する抵抗とあこがれの間で揺れ惑う。しかし人が事故的に現実を垣間見たり、現実に触れたりすることがある。その一形態が精神病である。

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